東京のすし屋の娘でもある、江戸前寿司伝道師Satomiです。

皆さんは今年のクリスマスをどう過ごし、何を食べますか。

例えば、

クリスマスといえば、ケンタッキーフライドチキン

クリスマスケーキ

ピザ

などを思い浮かべるかもしれませんが、魚を食べる事はありますか。

今回は、クリスマスと江戸前についてお話ししたいと思います。

クリスマスの起源

クリスマスは、ゲルマン人などによる冬至祭りの「ユール」が起源と考えられていて、北欧では今でもクリスマスをユールと呼んでいると聞いたことがあります。

日本でのクリスマスの始まり

に現在の山口県において降誕祭を行ったのが、日本におけるクリスマスの始まりだと考えられています。

クリスマス禁止

1612年に、第2代将軍徳川秀忠が、幕府の直轄地と直属の家臣に対してキリスト教の信仰を禁じ、翌年、全国へ法令を出しました。そして、したがわない者や宣教師を国外に追放した。

はじめ、幕府はキリスト教を黙認していたが、キリスト教徒が増加してくると、江戸幕府の支配のさまたげになることを恐れるようになりました。また、中国・四国、九州の大名が貿易で利益をえることをおさえようと考え、幕府はキリスト教の布教を禁止するようになりました。

そして、第3代将軍 家光は、さらに禁教をつよめ、徹底させ、1637年におこった島原・天草一揆の後、キリスト教のとりしまりは、さらに強められることとなりました。

家康がキリスト教を「禁教」にした理由

家康がキリスト教を禁止したのは、慶長14(1609)年に起きたポルトガルとのトラブルがきっかけになっていたとも言われています。

日本の朱印船が、マカオでポルトガル船のマードレ・デ・デウス号とトラブルになり乗組員60名が殺されてしまい、その報復として、日本側は長崎に入港していたデウス号を撃沈させました。この一連の出来事では、幕府の役人と日野江藩主(長崎県)の有馬晴信とのあいだの贈収賄事件なども絡み、江戸幕府初期の大きな不祥事となりました。この事件により、慶長17(1612)年に、家康は幕府直轄領に対して、キリシタンの禁制を発令したと言われています。

しかし、この事件は、単なるきっかけに過ぎず、家康はキリスト教禁教の機会をうかがっていたとも言われています。

意外と多かったキリスト教徒

戦国時代当時、キリスト教は、私たちが思っている以上に普及していたと言われています。

キリシタン大名の追放が始まった慶長19(1614)年の時点で、日本人の信徒の数は少なく見積もっても20万、多い場合は50万人ほどいたと見られています。

当時、日本の人口は1200万人程度だったとされているので、人口の2~4%がキリスト教徒だったことになります。

長崎を中心に、博多、豊後(大分)、京都などに布教の拠点があり、ポルトガル人やスペイン人の宣教師や教会関係者は、国内に100~200人程度いて、教会は200か所あった。長崎などは、一時、イエズス会の領地のようになっていたこともあったようです。

オランダと家康

家康が、キリスト教を完全に禁じたのは「キリスト教の危険性」のほかに、もう1つ大きな理由がありました。それは、幕府が独占的にオランダと交易するためでした。

家康はオランダと奇妙な縁がり、まだ征夷大将軍になる前の1600年4月、大分の臼杵(うすき)にオランダ船のリーフデ号が漂着しました。臼杵藩の藩主は、乗組員を保護し、長崎奉行に報告し、リーフデ号は大坂に回航されることになったのです。これは、「関ヶ原の戦い」の少し前で、まだ豊臣政権だったときのことです。

日本にいたスペインのイエズス会の宣教師たちは、リーフデ号のことを聞きつけ、家康に処刑するように注進しました。イエズス会は、カトリック・キリスト教の修道会であり、当時はプロテスタント・キリスト教と激しく対立していました。

リーフデ号の母国オランダは、プロテスタントの国なので、日本在住のイエズス会としては、プロテスタントの勢力が日本に及ぶことを非常に恐れていました。しかし、家康は、イエズス会の宣教師たちの注進は聞き入れず、リーフデ号を浦賀に回航し、乗組員を江戸に招いたのです。

クリスマスは祝われていたのか

天草などには隠れキリシタンもいたと言われていますが、クリスマスが祝われていたかどうかはわかっていません。ただ長崎の出島など、外国人が出入りしていた場所では、「冬至祭り」として祝われていたようです。

クリスマスの浸透

明治時代になると、銀座の明治屋がクリスマスの売り出しを始め、庶民の間にも普及するが、本格的に浸透したのは昭和になってからと考えられています。

戦前は天皇の誕生日とともに崩御の日も祝日としていた。そして大正天皇が1926年12月25日に崩御したため、1948年に国民の祝日に関する法律が施行されるまで、12月25日は「大正天皇祭」として祝日となりました。この期間にクリスマスが定着したと考えられています。このころ既に、東京のカフェや喫茶店でクリスマスの特別メニューが提供され、店員たちもクリスマスの仮装をしていたようです。

太平洋戦争のさなかは英語が禁止され、欧米風の祭りも自粛はされたが、クリスマスツリーの写真が残されており、クリスマスを厳しく禁止したわけではないようです。

江戸前と握り寿司

握り寿司は1800年前半に生まれたと言われています。

禁止令が出て200年近く後に出てきたと思われますが、もしも禁止令がなく、江戸でもクリスマスを祝う人がいたら、江戸風のクリスマスができて、江戸前の魚料理が料理に並ぶ江戸のクリスマスがあったかもしれませんね。

Youtube

まとめ

最近では、魚を使ったクリスマス仕様のレシピもみますよね。

長崎を中心に、博多、豊後(大分)、京都などに布教の拠点があったので、江戸にはどのくらいお祝いする人がいたかはわかりません。現在はクリスチャンでなくてもお祝いする人が多いですが、禁止令が出ていなかったら、また違ったクリスマス料理があったかもしれません。

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参考:

徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情

クリスマス