多様性と日本文化

東京のすし屋の娘でもある、江戸前寿司伝道師Satomiです。

皆さんは、多様性について考えたことがありますか。

例えば、

・人種や性別で差別しないことじゃないの?

・年齢で差別しないことじゃんないの?

・性別・国籍・人種・年齢など様々な違いを問わず全てを認めることじゃないの?

など、分かっているようで分かっていない部分があるのではないでしょうか。

最近、私は「多様性」という言葉について考えさせられる出来事がありました。

「多様性」という言葉を濫用している人が多いのではないかと感じることがあり、今回は、「多様性と日本文化」について紹介したいと思います。

「多様性」について考えるきっかけ

以前、あるミーティングに参加した時、他の人の話を受け入れない人達(二人)に会いました。

他の人に意見を聞いているのに、話に割り込んで、「視野の狭い部分でものを見ている」との発言、「絶対やった方がいいよ」と理由もなく、押し付けるような発言をしたり、自分の意見が正しいと言わんばかりに発言、他の人の意見を否定することから入り、自分の意見をいう、発言者の知らないことを「知らないくせに言うな」と言わんばかりに発言をするなど、「話し合い」ではなく、揚げ足をとったり、意見を押し付けているだけと思う方々でした。

その方々が、あまりにも「多様性がある」を濫用するので、「この人たちはどう言う意味で多様性があると発言しているのかな?」「多様性があるって私の認識間違っているのかな?」と疑問を感じ、調べてみることにしました。

多様性(ダイバーシティ)とは

英語では、diversity

・di「強意」verse「形や性質を変える」-ity「こと」

形や性質がさまざまであること

・di-=dis-(離れて)+L.vertere(変える、向く)+ty= 別々に離れて向くこと

日本語では、相違、多様性などという。

英英辞典には、

・the fact of including many different types of people or things

cultural/ethnic/linguistic etc diversity

(多くの異なるタイプの人や物を含めるという事実

文化的/民族的/言語的などの多様性)

・a range of different people, things, or ideas 

(さまざまな人、物、またはアイデア)

ethnic/racial diversity (=including people from many different races)

(民族的/人種的多様性(=多くの異なる人種の人々を含む))

biological diversity (=including many different types of plants and animals)

(生物学的多様性(=多くの異なる種類の動植物を含む))

linguistic diversity (=having many different languages)

(言語の多様性(=多くの異なる言語を持っている))

religious diversity (=including people of many different religions)

(宗教的多様性(=多くの異なる宗教の人々を含む))

genetic diversity (=having many different genes)

(遺伝的多様性(=多くの異なる遺伝子を持っている))

と書かれています。

日本においての多様性の現状

世界経済フォーラム(WEF)、世界「男女平等ランキング2021」で、日本は120位で史上ワースト2。G7ダントツ最下位だそうです。

日本は、男女平等だけで考えても、昔よりは徐々に変わってきているような気がしますが、まだ名残はあるように感じます。

海外における多様性

12年連続『ジェンダー平等』世界一のアイスランドってどんな国なのだろう?と調べたら、男女の賃金格差を違法とする世界で初めての法律や育児は誰にとっても守られるべき権利との認識が根付いていたり、女性リーダーが当たり前にいる社会であったりするようです。

また、ゲイの街で有名なカストロ地区 ― カリフォルニア州サンフランシスコを知っている方もいるのではないでしょうか。

1960 年代に行動主義の拠点としての存在感を強めたこの画期的なコミュニティは、LGBT の人たちが安心して生活し、仕事をし、交流できる聖域になりました。

10年ほど前ですが、朝、その街を歩いていたら、階段の数段あるアパートからミュージカル俳優のように出てきた知らない人に、”Good morning, people!”と言われたことがあります。アメリカ人の友人と一緒に、”Good morning”と返しながらも、扉から出てきた知らない人に大声で挨拶されることは滅多にないので、笑顔で良い朝を迎えられました。

今思い返すと、”Good morning, ladies”などと言わない言い方は、あの街ならではだったのかな?とも考えられます。

「多様性」という言葉を使わない「私」

ミーティングであまりにも多様性を濫用していたのですが、私には、「この人たちは多様性をどのように捉えているのだろうか?」と疑問を持ち、考えました。

その結果、「彼らは周りの意見を受け入れた上で意見を言わないから、何を持って多様性という言葉を使っているのだろう?」と思っていたのです。

そして、それを様々な国の方と仕事をしている先輩に「多様性って何だと思う?」と聞き、その出来事を話すと、「全然多様性ないじゃん。私たちもある意味多様性だから」と言われました。

それぞれの人を「こういう人だ」と当たり前に受け入れ、自分も周りに受け入れてもらっているということでしょう。

ひとりひとりの違いを認識することの重要性

人種、年齢、性別などだけをいうのではなく、ひとりひとりを認めることが大切ですよね。

「人種、年齢などを特別視しているから出る言葉なのではないか?」とすら思ってしまいました。だから私よりも自分の方が年上だと?立場が上だと?思って、上から目線でものを言ってくるのでしょう。

このタイミングで、日本語教師養成講座を受講したときの恩師のインタビュー記事を見ました。

ときめき取材

この記事の「Be myself」私らしく堂々と。

「オーストラリアに合わせて過ごすのではなく、英語の発音が悪い自分とか、日本の文化を背負った自分も全部含めての自分だから、変に現地の人に合わせたり、オーストラリア人みたいに英語を話すことで仲良くなるというよりも、少し日本語のアクセントが残っているから私らしさが出る」と言った部分で、それはその人にしかできない個性なので、それを認めて受け入れるということも大切だと考えます。

ただ、個性ではない部分、例えば、最低限のマナーのなっていないことは、また別だと考えます。

また、「そういえば、この学校は多様性のある学校だったな」と改めて思いました。

今でも思い出話になっている妖精の話。

「昔妖精が見えた時に…」と出来事を話してくれたクラスメイトがいました。

クラスは爆笑。「それ見えない人からしたら、ただの変な人じゃん!うける!」と。でも、その言葉のなかに、自分にはない能力を持っていて、それを否定せず受け入れた上で爆笑するという愛を感じました。

そう言った不思議なパワーを持った方が多い学校でしたが、誰も否定せず、ありのまま全てを受け入れわからない世界を教えてもらったりしました。

日本語と日本文化ですが、私の恩師の記事にもあるように、日本語とスピリチュアルという点。

最近、「思ったことやそのときの感情に対し、ただ終わるのではなく、なぜそう思ったのか、なぜそういう感情を持ったのかを考えていくようにしてみるといいよ」とアドバイスを頂いたり、以前よりも日本語を深く学ぶことで、話し相手などのことが前以上に見えるようになった部分もあります。もともと勘は鈍い方ではありませんが、勘を信じたり、自分の気持ちに素直になることで、以前よりも勘が冴えてる気がします。

今回の多様性についても、疑問に思ったことを掘り下げていったから出たことです。

また、日本語から見る日本人・日本文化には、「ウチ」と「ソト」の概念があります。

日本在住の多国籍の人もずいぶん増えたようですが、まだまだ外国人を「ソト」と認識する部分もある気がします。

ただ、周りと共存するという考えの日本語から見ても日本人は、あからさまに差別をしたり、態度に表したりの行動は見られないはずです。

炎上に見る日本語と日本人

日本語から見る日本人は、共感する人達です。

例えば、

「おはよう」

英語では、Good morning.と訳されますが、

「おはよう」は「(お)早いの副詞形」で「(お)早く」が崩れて「(お)はよう」になりました。「おはよう」は「お+早く」が元の形。有難うと同じで「状況・様子」を表す形容詞文になります。

話者が出てこなく、向かい合っていないもので、

例えば、まだ太陽が上がりきらずに地平線に顔を出した様子を二人が並んで見ています。

「まだ朝早い」という状況に二人が心を震わせて、「こんなに早いんですねえ」と心を合わせているのが「おはよう」という表現で、二人はそこで「共感」しています。

「共感」とは、優しくいうと「同じ気持ちになること」だから、それに対して聞き手が返事で「おはよう」と答えています。

テレビ局などでは、朝ではなくても使うと言われますが、「まだこんな時間なんですね」と二人が心を合わせ共感することでしょう。

一方、英語の”Good morning.”

I wish you good morning.

話し手の私が、「聞き手のあなたにとってこの朝がいいものであるように」と祈るという積極的行為の表現が元になっています。

日本語は、英語のように相手がおらず、最初から一緒に共感・感動しているだけだから、文には人が出てこない。

日本語は共感の言葉、英語は自己主張と対立の言葉です。

日本人は話し手と聞き手の共通点に注目し、英語を母語にする話者は両者の違いに注目しています。

また、日本語は同じ方向を見ていますが、英語は対面になって会話をする文化です。

例えば、日本の映画では、心を通わせる二人はよく同じ方向を見ていますが、アメリカはお互いに見つめあって、燃えるようなキスを交わし、ストーリーが終わることが多いのではないでしょうか。

自己が強すぎるが故に、対人関係には敏感で共感を得られるはずの日本人ですが、最近「炎上」とよく耳にします。

あったこともない人に批判のコメントなどをして、問題になりますよね。

共感の言葉でなっている日本語を話す日本人は、相手の意見を受け入れられない部分が増えている気がします。

共感を得られないから、反論してしまうのでしょうか。周りの人によって、自分が作られているし、周りも受け入れるはずの文化でもあるはずなのに…

言葉は変わるものですが、根底の考え方はなかなか変わるものではありませんよね。

また、日本語から見る日本人には、「縦社会」もあります。

だから、年齢を気にする人がいたり、下に見る人もいるのでしょうか。

「何かを守る上の人」と「それに忠実に従う人」。その点からも、自分が上にいたいという思いが強いの人もいるのかもしれませんね。周りを受け入れるという文化があるはずなのに…

海外にばかり目を向けず、まずは日本文化の見直しが必要でしょう。

多様性と足立区

足立区出身の私ですが、『足立区の法則』という本を読んだことがあります。

「外国人もなじむ」ようなことが書かれていたのですが、そう言った意味でも、足立区は昔から住んでいる人は、多様性のある人が多いのではないかと思います。

まだまだ外国籍の友人と歩いていると、目線は感じますが、平気で話しかけてくる人も多い気がするし、友人は一人で歩いている時でも「話しかけられたけど、何言ってるかわからなかった」などと言っているのを聞きます。飲みの席ではなおさら話しかけられることが多いようです。

後、中学時代にも大学時代にも友達に「初めて会った時に誰にでも平等に接する人だなって思った」と言われたことがあります。それは多分、小さい頃から足立区のお店で色々な人と接し、周りの人が私に同じように対応してくれたからなのかな?とも考えられます。

今からできること

人種、国籍などの前に、まずは日本人同士でも相手の意見を受け入れた上で発言をすることなどが大切なのではないでしょうか。

もしそれができていないなら、やはりまだ外国籍の人を「ウチ」と「ソト」の「ソト」と認識しているということでしょう。

海外に行くと、国籍はその国でも、ルーツは別の国の移民と一緒に生活することになります。

あまり馴染みのない英語、Where are you originally from?(ルーツの出身地を聞く時)があるのもそう言った点からなのでしょうか。

日本で言えば、今は東京に住んでいるけど、福岡の人間ですと言った感じ。

その中で生活するには、もし今日本で生活していて外国籍の人とは関わっていないというなら、日本人同士でも相手を一人の人として認めた上で、見た目や見た目年齢などを問わずに対等に対応するところから始めた方がいいでしょう。

そして、自国の文化を大切にすることはもちろん、日本文化の良いところを残しながら、世界基準の対応に合わせていくと良いはずです。

世界基準の対応に合わせるには、日本人として何が良いところかなどを含めた日本文化はもちろん、外国籍の人と接しての良い部分などを自分にどんどん受け入れたりなど、自分で考えながら対応していくことが良いはずです。

「もてなし」

日本人には「もてなし」ができる文化があります。しかし、今回の出来事は「もてなし」に答える方法を知らない人だと感じる出来事でした。

私は新卒で一般的に大手と言われる銀行に入行。マラソンなどが苦手な私は克服しようと、ランニングサークルに参加しました。そこには海外の支店に勤務し、帰国したお偉いさんが多かったのですが、私の父のお店で忘年会をするということになりました。

専務は店を出る時に、父にお辞儀と一緒に感謝の言葉を述べ、とても丁寧に挨拶をしていたことを今でも覚えています。「そこまでしなくても大丈夫!」という位でした。

そして、その翌日、専務はもちろん、色々な役職のある会社の上の方々が、平社員の私のとこ

ろにきて、「ありがとうございました」と言います。中でも専務は座っていた私に、父にしたようにお辞儀と一緒に感謝の言葉を述べ、同じチームの先輩や上司も何事かとびっくりしていたということがあります。もちろん私も丁寧すぎると言っていい挨拶だったので、思わず席を立ちました。普段、世間で常識などと言われることには厳しく考えてしまう私ですが、あそこまでの挨拶には「そこまでしないでください」と思うほどでした。

しかし、そこまで丁寧なお礼は求めませんが、私はお礼を言うことは当たり前と思うのです。例え上司でも、偉そうに当たり前な態度を取らずにお礼はするべきだし、後輩にお世話になったら後輩にもお礼をするべきだと考えています。でなければただの常識のない人でしょう。その後、後輩にふざけて上司が来ると「友達きたよ」などと言われるようになった事は今ではいい思い出です。

どの国のエリートも感謝の気持ちを持っていると聞きます。

そして、私もそれを目の当たりにしました。しかし、「もてなし」のできるはずの日本人はどの国よりも最大限の「もてなし」ができるのではないでしょうか。

今回の私の会社での出来事にも見られるように、エリートは「もてなしに答える」が基本になっていると今でも感じています。

普段の行動や考え方からも仕事のできる人できない人なども日本語や日本文化からもわかると考えられます。

Youtube

まとめ

今までお会いしたエリートさんは、国を問わず、どの方も良い意味で普通でした。

しかし、話していることで「すごい人なんだろうな」と思う経験をしていたり、「あっこの人すごい人だったんだ!」と後で知ることもあります。その根底にあるのは、年齢や人種を問わず、一人の人として平等に接してくれるということ。

多様性の前に、まずは日本人同士でも年齢や肩書きなどでみずに一人の人として対応することが大切です。それができた頃には、多様性という言葉は忘れているかもしれませんね。

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参考:Gogengo words Longman 世界平等ランキング ジェンダー GoUSA

認知と言語認知と言語 日本語の世界・英語の世界 (濱田英人著) 

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